◎一視同仁。世のお役に立つとは、神様の悲しみを和らげること。おかげの頂けれる機微。太平楽。親先生の失敗談。
%1お詫びしなければならなかったこと %2大坪の土へんをとられたこと。
%G %H %U %V
昭和四十五年二月十四日朝の御理解
X信心の心得「天が下に他人という事は無きものぞ。」
%V%Uこれは、神様の眼から御覧になれば、どの氏子もどの氏子も可愛い氏子だという訳なのですね。そういう神様の立場に立たれたら、言わば一視同仁、ですからこれは、お道の信心を頂かねば、そこのところは分からんと思うのです。親神様という事が分からせて頂けば頂く程、天が下に他人という事は、無き事ぞという事が分かります。
「金光大神」の中に、天地金乃神様が日本の天照皇大神との神語りがのっております。あなたの氏子に、川手文次郎という氏子がおりますが、あの氏子を私に下されと、こう言うておられます。それに応えて天照皇大神様が、あの氏子はかけがえのない氏子ですから、やられませんと言うて有ります。それを再三お頼みになって、そんなら仕方が無いからあげましょうと、最後に天照皇大神が言うて有ります。私共では分からない世界での、いわゆる神様と神様とのお語らいで有ります。
%Uそこで、川手文次郎という者の国籍が変わられた、日本の川手文次郎ではなくて、世界の川手文次郎になられた訳です。いわゆる、天地金乃神様の氏子としての自覚がお出来になられた訳です。そこで私は初めて、天下泰平、諸国成就というような祈念がなされるようになったんだと思います。
%V%Uいわゆるそれを、現代の言葉で申しますと、世界真の平和、総氏子身の上安全という事になる訳です。そこでですねえ、私共が日本人という自覚から、やはり世界人としての自覚が出来なければ切実な祈りというものは出来んのじゃないかと思う。いわゆる、神の氏子としての自覚、天地金乃神様の御子としての自覚なんです。その自覚が必要になってくる訳ですねえ。
%Vそこで、天が下に他人という事は無きものという事が、私共が天地の親神様と唱え、それが分からせて頂けば頂く程、天地の親神様の立場に立って、世界中の氏子を、自分の可愛い愛し子としてご覧になられるそのお気持ちが分かってくる訳です。神の心を知るという事は、そういう事です。
%V神様の心が分かってまいりますから、神様の心を心としてというのが、お道の信心であってみればです、色は黒かろうが白かろうが、やはり祈らなければ居られません。
そこで私共は、信心させて頂いて、神様の思いが段々分かってくる訳でしょう。だから、親神様の思いに立って、世界中の難儀な氏子が見えてくるようになる訳です。
%V神様の立場、神様のご覧になる人間氏子の難儀が、そのまま私共の難儀に見えてくる訳です。そこんところからです、本当の意味に於いての世界真の平和、諸国成就という事がです、祈れてくるんじゃないかと思います。
%V皆さんこれはもう、理屈じゃないです。神様の思いが分かってくればくる程です、段々その切実心というのは、強うなって来る。これは私自身その体験からも言えます。
%G%H二十年前もやっぱ神様の思いは分かっておるように思いよったけれども、神様の思いが分かっておるその程度が実に浅かったと思う。そして、切実に願う事は自分の事、自分一家の事、自分の教会だけの事、といったようなです、切実な祈りが出来なかった。それが、段々です、神様の思いが分かってくると、神様の願いが分かってくる。そこで、私が時々皆さんに申します事が有ります。
例えば、嫁さんが姑親に対して、本当に大事にさせて頂いておる話を聞かせて頂きますとねえ、ほんなこて、私あんたにお礼を言おうごたるというのを、皆さんに申します。これは、私の実感なんです。
いうならば、私は神様の心が分かるから、そうなんですよ。いかに、神様がお喜びじゃろうかと、こう思う訳です。そのお取り次ぎをさせて頂いて居る私としてもです、本当に実感として、あんたにお礼を言おうごたるという事になってくるのです。その実感が、次第々に祈りの範囲というのを広げて参ります。
最近、世界中の氏子と、その事が本当に世界の、言わば地球上に住む人間氏子の事が、本当に隅から隅までの氏子の事がです、あなたのお恵みによって、お生かしのおかげを頂いておりますが、その同、不同の有る事に驚くばかり。
国としての力の無い国民の苦しみ、文化に浴して無い所の民族、本当に切実にです、もう兎に角、その日その日を食べていく事に生きて居る、他には何あにもない、というようなそれも、神様の氏子でありながらです、まあだそういう程度の低い生活をしておる氏子が世間には沢山ある。
例えて申しますと、暑かったり寒かったりの中に、今日はえさにはずれておるような事はなかろうか、今日は、食べ物が有っただろうか、私は親としては、それを思わん筈が無いと思う。
%Vですから、神様の思いが段々深く分かってくるのですから、神様と同じような、例えて言うなら、思いが世界の隅々にまで、自分の心を走らせる事が出来る。いわゆる、世界中の氏子の立ち行きを願わずにはおられない。人間人類のです、幸せを願わずにはおられない。信心も分からず、只自分達が食べていく事の為だけにです、争いをしたり、我情我欲を言い合って不幸せな氏子が、そこに有るとするなら、その事を祈らなければおられない。皆さん、そういう事になるのじゃないでしょうかねえ。
%V私共、信心して神の願いが分かるというよりも、神の思いが分かる。その神様の思いというのは、世界の総人類を神の氏子として、お呼びになり、神の愛し子として、慈しんで下さる心は、皆、一視同仁である。
その氏子がです、貧乏な氏子もあれば、裕福な氏子も有る。恵まれて居ったり、恵まれて居らなかったり、様々なんだけれどもです、恵まれていない氏子の上を、神様がご覧になる時です。どうぞ、氏子信心しておかげを受けてくれよというその願いが、切でおありになるその心が分かってくる。
そこで、私共は、日々こうしておかげを頂かせてもらい、神様の思いが分からせてもろうてくるに従って、私の祈りは段々大きく広くなってくるというのです。これは、確かにそうなんです。
%Vけれども、信心のおかげを受けると言う、いわば、おかげの頂けれる機微とでも申しましょうか、それにはね、いわゆるそらごとではいけないという事。
%Vそらごとという事は、祈りが空であってはいけないという事。空々しいものであってはいけないという事。どこまでも、実意を持った、いわゆる実感なものでなからねばならないという事。本当の心のものでなからねばならないという事。
%Vそれにはです、まず信心の手初めとしてです、お互い難儀を感ずる所から、ほとんどの人が御神縁を頂くのでございますから、今困って居る、今難儀を感じて居る事、今ここが痛いと思う事、痒いと思う事をです、祈り、願うという事になるのです。
%Vその私は実意とか、実感とかが神様には通うのですから、いわゆる願う氏子におかげを授けとおっしゃるから、そういうおかげを頂いて参りますうちです、段々信心が分かるという事は、神様の御心がわかるという事なんです。
その神様の御心が分かるから、只今、私が申しましたようにです、神様の心になってみればです、あれも可愛い氏子、これもやはり、可愛いい氏子であるというのですから、これが不幸せになっていきよるのを、神様が悲しまれない筈が無い。
%Vその神様の悲しみをです。私共が助けて差し上げるとでも申しましょうか、神様のその悲しみを、いくらかでも和らげ申し上げる働き、それが、世のお役にたつという事だと思うのです。
だから、そういう祈りが切実に出来てくる事の為に、いよいよ神様の思いが分かり、神の願いが分かってこなければならんのです。
%Vまずだから、手初めとして、まず自分の手掛かりとして、自分の身内の者、そして又は、自分に縁を頂いてくる者、神様が差し向けて下さるいわば人、又は袖すり合うも多少の縁と申しますから、袖すり合うという縁、そこから祈りが発せられてこなければならん。道を通っておると、それこそスピードを出して走って居る車に出会う時です、「金光様!」と祈らなければ居られない心が生まれてくる。よかよか自分の車さえ、事故に合わなかったらよかというものじゃなくなってくる。
自分の息子も、人の息子も同じ事、ああいう乱暴な乗り方をして、走って行よるが、どうぞ事故でも起こすような事があっちゃならん、どうぞとこう神様に祈らせてもらう、そういう心が自分の周辺に段々、祈りの対象というものがはっきりしてくる。それが日本国中に広がり、世界中に広がっていくという事がです、私の祈りが段々ひろがっていく事をひとつ楽しみにせないけん。
%Vまあこれは、結果ですけれども、そういう祈りが大きくなってくる事によってです、おかげを頂く範囲というのは確かにひろがるのです。言うなら、一反持つよりも五反、五反持つよりも一町持った方がいいようにです。どうでも、自分の切実な祈りというものがです、自他共に、自分の所だけじゃない、他人も神の氏子としての見方、天が下に他人という事はないという実感がです、心に本当に感じられるところから、おかげを頂かなければならん。
そういう自分の祈りが大きくなっていく、しかも切実になっていくに従って、まあこれは、私の体験からですが、おかげの方が大きくなってきておるという事実があるのです。 だからどうでも、自分の方さえよけりゃよかというような思い方が自分の心の中にあるとするなら、そういう心に取り組んで、自分の心の浅はかさ、自分の心の小ささを悟らなければいけんと思うのでございます。
そして例えばです。そんなら、御理解五十八節を頂きますと、「人が盗人じゃというても、乞食じゃというても、腹を立ててはならぬ。盗人をして居らねばよし。乞食じゃというても、貰いに行かねば乞食ではなし。神がよく観て居る。しっかり信心の帯をせよ。」ここでは、まあ人から、悪口を言われても、という事を乞食とか泥棒とかと、いうなら、悪口でも最高の悪口です。
ですから、勿論人から言われてもですよ。神様は観てござるからと思えば、腹も立たない訳ですけれども、それだけではなくてです。こちらがね。信心頂いて居る私共自身がです、面と向かっての事ならいざ知らず、その人が本当に立ち行く為にいう悪口も有りますがです、まあそれは、よい事としてです、影でね泥棒とか乞食とか陰で人を陥れるような、人の悪口を言うような事は、もういよいよ出来なくなってくるのですよ。神様の眼からご覧にならばそうなんです。
%V%U教祖様の御時代に、ある信者がお参りして参りまして、金光様の信心が有り難い事を段々分かって来た。それがこうやってお参りをして、お話しをして居る中に、お釈迦様がどうの、キリスト様がどうの、とまあいろいろ悪口を言いよった。そしたら、教祖様が大変機嫌の悪い顔をなさったという事である。もう教祖様のお心の中には、天地の親神様と、同根のものが有るからなんです。先程から申しますように、いわゆる、もうね、国籍が日本国の国籍ではない世界の国籍なんです。
世界人としてのいわば自覚、お釈迦さんだったろうが、キリスト様であろうがね、天地の親神様の氏子に違いないのだから、いわゆる、天地の親神様から観れば可愛い氏子なのだ、キリスト様でもお釈迦様でも、そのお釈迦様の悪口をいうたり、キリスト様の事を悪く言うたりねしておるのを、聞かれてやはり機嫌がわるくなられた筈なんだ。
%V%U釈迦もキリストも神の氏子ぞとお教えられたいう事です。それがね、自分が神様の心になれとか、自分が神様の思いが分からなければ、そうなって来ない。
まあこの頃から、北野に火事がありましたね。三軒も焼けた。ああうちじゃなかったけんよかった・・・、例えばですね、それは誰だってそう思いますよ。ああうちじゃなかけんよかったと、うちまで燃えなかってよかったと思いますけれども、思う内容がね。
隣の息子が怪我した。ああうちの息子じゃなくて良かった。けれどもね、神様の思いが分かってくるとね、それはなる程、うちの息子じゃなくてよかったろうけれどもです、それが自分ごとの事として、願えれる心が生まれてくると思うのです。いわゆる人事とは思われんというのである。それが、切実な祈りになってくるようなおかげ。
あれは乞食のような奴じゃ、泥棒のような奴じゃと、まあ例えば、人から聞く時にです、やはり機嫌が悪くなる位なおかげはひとつ頂きたいですねえ。
、自分の事を言われる時には、腹を立てなとおっしゃるから、腹を立てんけれどもです、周囲の人達の事を陰口に悪口をいうて居るなら、それを聞いて腹の立つ位のおかげは頂きたい。そこにね、お互いの信心が進んでいきよるという事をです、感じる事が出来るんじゃないかと思います。
ひとつ本気でね、信心させて頂いて神様のおかげを頂いて、そしてお話しを頂いて神様のお心が分かる信心。神様の心が分かるから、神様の心に添うてゆかなければならない。という事と同時に、神様の心が分かるようになるとです、今日頂きます天が下に他人という事はなき事ぞという、それが実感として頂けてくる。神様の言わば、心にもなって思えれるようになる。自分の心が神に向こうていきよるから。
『今朝方私は、お夢を頂いた。もう本当にこわいこわいというか、気持ちの悪いというか、私が大体支那に居りましたから、支那におるのです。それが山水なんかに出てきます、仙人のような格好をしておるそういう人達がたくさん有るのです。それが皆支那人なんですけれど、日本語を使っているのです。そしてその私がね、いわゆる私の子供というのが、いわゆる何か悪い事をしたのを、責任を取らなければならないようになっておる。』
『そしたら横におる、七、八人の人が私を指していいよるとです。あれはどうも、台湾のごたるばいと、台湾人と言う意味でしょうねえ。そしたら横のが又いいよりますもん、そうじゃろう、台湾の土佐の人間じゃろうと言いよりますもん。まあ台湾に土佐なんてないですよねえ。というてまあ、自分よかごといいよると言う感じなんです。自分の子じゃないからです。もうあれは、台湾人と思うとるから、台湾人じゃろうと、そしたら横のが台湾の土佐の人間じゃろうと。それこそ自分の事でないとですね。そういうように、只、面白半分に言いよる。』
『これが本当に日本におるなら、こう言う事もなかばってん、外地におるもんだからまあ仕方がないと思うているようなお夢であった。まあ台湾とか土佐とかいう中にいろいろ教えられる感じが私もします。』
『それから今朝、御祈念中に頂きます事、ある事を私お詫びさせて頂きよりました。そしたら、大坪の坪の土辺を消されるところを頂いた。そしたら、どういう事になりますか大平という事になります。』
%1それがね、どういう事を私がお詫びしておったかというと、昨日十三日会の後に、秋永先生と嘉朗さん二人でコタツの室の棚に間仕切りをして棚をつけて頂いた。それこそ、玄人はだしの立派な棚が出来ました。それで、二、三人の方が、手伝うて頂いて、たくさん頂いておりますから、それに全部箱に入れて、張り紙をいたしました棚に、ずらーっと並べましたら、もうあそこが、いっぱいになりました。もう本当に開けたばかりで楽しいような見事な、それに名器がずらりと並べられた訳です。それで私もそれを指図させて頂いて、昨夜遅うまでかかったんですけれども、もう疲れたの疲れんのというて、もう丁度取上の加勢に行ったごときつかと私が言った位でした。別に私があっちへ行ったり、こっちへ行ったりする訳じゃないから、
%2ところがですね。どうしてそんなに疲れたかと言うとですねえ、言うならば、私が楽しむ為、私が楽をする為にです、例えば秋永先生を使い、嘉朗さんを使い、それから茂さん、高橋さん、茂雄さん、もう兎に角、何時間という間ぶっ通しに御用なさった訳です。そういうような事がです、やはり私は今日、土辺をとられたことじゃなかろうかと思います。
%2その事のですね、あまりにきつかったから、只、きつい事がです、本当に御結界でお話しをさせて頂いておるとかなら、ひとつも疲れをみらんのに、只、あちらで、ああだこうだと口で言うておるだけ、指図しておるだけで、こんなに疲れる。やはり神様のお心にいわば反した、自分が楽をしようとするその心が、こういうきつさになったんだろうと、昨夜から思わせて頂いて、今日は又元気で御用が出来ますようにという願いは、さして頂きましたもののです、其のことを今朝からお詫びさせてもらいよったら、そんな事を頂く。土辺を取っている。土辺という事は泥、言うならば、泥のような信心というか、大地にひれ伏したような信心というか、勿体ない々々という信心、そういう信心が欠けておる。
%2そして私は、これは自分で感じたんですけれども、大坪を大平という事になったから、これに楽をつけると、太平楽ばっかり言うてからと私の心に感じた。神様からそれを言われたような感じがしました。
自分の事にきゅうきゅうとしておる時にはです、決して人の事なんか祈れません。人の迷惑すらも感じません。私の昨日の午後からがそれだったと思う。私がきついように、秋永先生なんかもきつかっただろう。そらもう茂雄さんあたりなんか、あっちからこっちから道具を集めていろいろせんならんから、大変お疲れになっただろうと思います。人の疲れなんか一つも考えていない、只、自分の思いが適いさかすりゃよか、というのですから人の事なんか、やはり祈れる、思えれるといったようなです、それはきつかろうなんて思いも起こって来ない、ですから今日頂きます、天が下に他人という事は無き事ぞといったような、例えばこの御神訓をです、私共が段々信心を分からせてもろうて、神様の立場に立ってものを思い行う時にです、神様の眼から御覧になれば、そうもあろうと言うなら、世界の隅々の人間氏子の難儀な人達の上の事をです、本当に実感として、祈らせて頂けるようなおかげが段々頂けてきたという事。
それでも、やはり自分が楽をしようというような心が有りますとです、いわゆる自分の事だけにかまけてしまって人の事なんかはどうでもよい事になってくる。思いもしないようになってくる。
自分の事にかまけてしまう。人の迷惑なんかは、あとで迷惑じゃったろうと思うても、その時は、ご迷惑である事も考えないようになってくる。そこに神様から、言うなら、お叱りを受けるとでも申しましょうか、太平楽ばっかり言うてというような事になったら大変だと思います。まあ言うなら、これは私の失敗談。
私共は気付かん間に、太平楽を言うております。だからそれではね、何時迄たっても天が下に他人という者は無き事ぞとおっしゃるような素晴らしい大きなおかげの頂けれる信心。そういう大きなおかげは、何時迄たっても望めないという事になります。
天が下に他人という事は無き事ぞと、ああそうだろう、神様の眼からご覧になれば、一視同仁と分かっただけでは何にもなりません。
今日私が申しましたようなところをです、本気で分からせて頂くという事。それが実感として祈れれるという事。言わば、他人の事じゃない。それこそ、他人の事とは思われないという、私は親身な祈りが自分の縁にまかせて、自分の縁の出来てくる人達の事をです、祈れれる信心を頂きたいもんだと思います。それが、私は世のお役に立たせて頂く信心じゃないかと思います。どうぞ。